田原きょうこについて書きます

0歳赤ちゃん専門助産師 田原きょうこです!


島根県益田市の自宅の助産院でベビーマッサージ教室を4年続けながら、母乳ケアなどの産後ケアを行っています。

助産師になって23年、関わったママと赤ちゃんはのべ10,000人以上になります。


ベビーマッサージを習ってくれた親子はのべ1,000人を超えました。



現在、【ママに寄り添うベビーマッサージコース】という育児疲れから解放されてママが癒される4カ月ベビマコースがはじまり満席となっています!


少し長くなりますが、私がなぜベビーマッサージの教室を始めたかがより分かっていただけるよう、生い立ちからお話ししていきますので、お付き合いいただけると嬉しいです。

人好きの幼少期


私は広島県呉市生まれ、家族は父、母、12歳上の兄の4人です。
幼い頃から人が好きで、玄関のチャイムが鳴るとダッシュして玄関に行き、来られたお客さんとお話するのが好きな子どもでした。
小学生の頃は、保育士になりたいと思っていました。小学校4年から6年生までは父の転勤で横浜で団地住まい、都会の子たちとは何となく雰囲気が違うと子どもながらに感じていて、馴染めずに一人でいる時間も多くて、そうしてるうちに同じ団地の赤ちゃんとよく遊ぶようになりました。

その時に赤ちゃんのママたちともよくお話をしていて、小学生の私もママ友の会に参加して、おやつをいただきながらママのお話を聞くのが同級生と遊ぶより楽しく感じられました。
今となっては、ママの悩みを聞いたり、ママと対話することを仕事にしていて、それが楽しいと思えているのは、この私の幼少時代があったからなのかもしれません。

中学生のときには、バスケ部に所属、高校生ではサッカー部のマネージャーをして(ルールも覚えなくていいしスコアもつけなくていい、お茶だけ作ってればOKなマネージャーで)ただただゆるーく青春していました。


高校生になって将来の夢は助産師


家族に医療系が多かったので、私も医療の道に進みたいという思いと、女性が赤ちゃんを授かり、出産することへの不思議な気持ちがありました。

そして、いずれは自分も子どもを産み育てたくて自分のためにも知っておこうと助産師になることを決めました。

また、もともと人が好きだったので、人と関われる仕事でちょうど良いとも思っていました。

だけど、両親は県内の大学の中で決めるよう言ってたので、その頃助産師になれる大学は県内1つ、ダメだったら他の資格の取れる大学にしようと、どうしても助産師になりたい!とまでの熱意は正直ありませんでした。


念願の大学入学

一か八かで受けた国立大学医学部に合格。
運がよかったようでまさかと思ってわたしが一番びっくりしてました。

1年生のころは自由な時間がたくさんあって、バイトもして、友達と朝まで飲んだり、クラブに行って遊んだり楽しい大学生活を送ってました。

しかし、だんだん授業がハードに💦

なりたい職業のために選んだ学部だったので、実習やレポート、卒業研究、就職活動、詰め込むだけの国家試験勉強(一度に3つ受験!)と4年生は特に忙しく、就職活動が終わってのんびりしてる友達が羨ましすぎて、もっと大学生活遊びたかったのにとこの道を選んだことを何度も後悔しました。

ですが、同じ助産師志望の仲間と励まし合って、どうにか踏ん張り努力し無事卒業。

ここでがんばれたからこそ助産師になれて、今お仕事にできているので、あの時期は私の人生のなくてはならない財産だと思っています。

独身生活謳歌からの結婚、移住


大学を卒業し、7年間、広島市内の総合病院で勤務、お金も自由に使えて夜勤があるものの平日にも休みがあり、空いてる時期にゆっくり国内外旅行したり、友達と美味しいフレンチを食べに行ったりと独身生活を楽しみ尽くしました。


大学1年から友達だった夫と4年のお付き合いを経て結婚し、結婚機に島根県に移住しました。

その時は隣の県でも親も仕事も友達も全ての環境を置いて広島から離れるのがとても辛くて辛くて、結婚に踏み切ることがなかなかできずにいました。決断するまで4年もかかっちゃいましたが、今となっては島根の自然豊かで食べ物も空気も美味しくて住みやすい環境に大満足!



夫には強引に連れてきてもらって感謝しています。笑


まさかの不妊。。。


結婚したのが29歳、いつ妊娠してもいいと思っていたのになかなか妊娠できずにいました。

お仕事では妊婦さん、ママ、赤ちゃんに関わるのに私は妊娠できないという事実を毎日突きつけられる思いでした。

ある時、久しぶりに友達に電話をしたら、「電話かかってきたから妊娠報告かと思った〜!」と何気なく言われたその言葉が、流しきれず全く笑えなくて。

どうにかその場はやり過ごせたけど、電話を切った瞬間涙が止まりませんでした。

仲のいい友達だったけど、それが辛いことだったことは言えてなくて。

相手だって悪気はないと思うと自分の意見を言えなくなったり、気を遣ってしまったりする性格です。

それでも夫にだけはその思いを伝えることができていたので、辛くても心落ち着けられていました。


初めての妊娠と難産


結局、結婚から5年経ち、不妊治療を選択、第1子の男の子を授かりました。

待望の赤ちゃんだったので妊娠できた事はとても嬉しくて、つわりもひどくても妊娠してる証と思ったら嬉しかったです。

お産はもう一回いきんで生まれなかったら帝王切開ね!と言われるほどの土壇場のお産で、吸引分娩にお腹も押されて、会陰切開以上にさらに裂傷するほどの難産でしたが、妊娠できなかった日々を思えば何でも乗り越えられると思えました。

産後は貧血や会陰切開のキズが痛くてなかなか体調が戻りきらず、日中は誰とも話すさず家にこもって頻回授乳の日々、お昼は抱っこでしか寝ない長男の子育てに行き詰まっていました。
抱っこも立って抱っこじゃないと落ち着かない時間帯もあって、冷凍ごはんを温めてラップのままをキッチンで広げて立って食べていました。
徐々に生後4ヶ月ごろからひとり遊びができるようになり、子育てにも体力的にも慣れていくと、一緒に外出できるようになり、ママ友もできてランチしたりもできるようになって、夜3回も4回も授乳で起こされてましたけど充実していました。

その後はまさかのぽんぽんと第2子、第3子を自然妊娠して出産。

長男が道を作ってくれ、子育て中の健康的な生活で妊娠しやすい体づくりができたおかげかもしれません。

お産も断然楽ラクでした!

あっという間に3児の母、3兄弟は元気いっぱいでやんちゃ。


夫は仕事が忙しく1ヶ月に数えるほどしか休日がなく、夜も遅くて常にワンオペ。
出かけようにも3人連れて出かけると3人があちこち散らばっていくので目も手も離せず、ハードルが高くて思うように出かけられずモヤモヤする日々

当時の病院勤務はやめたものの、気分転換できなくて子どもたちにつきっきりなのも息が詰まる思いでした。

さぁ仕事しようと思うものの、これからどう働いたらいいのかずっと迷っていました。

3兄弟のワンオペでフルタイムは働ける気がしない。。。


毎日があっという間に過ぎ去って、髪を振り乱してイライラと格闘しながら、時には涙を流しながら子育てする毎日。
どこに仕事と子育ての両立できる余裕が私にあるのかいくら考えても無理だという答えしか出てきませんでした。


高校生との対話


そんな時、高校生と対話するイベントに誘われて、赤ちゃんだった三男も抱っこ紐して連れて参加したんです。
そこでは、少人数のグループになり高校生とそれぞれの人生を振り返って発表し、嬉しかった、辛かったなどグラフにして見せ合い、今の自分を見つめ直したり、これからの自分のやりたいことを話すというイベントでした。

その時、私は今までの人生の中でいつが1番楽しかったかという高校生からの質問に、自分が独身でバリバリお仕事をしていた頃が自由もあって1番楽しかった、今は毎日が精一杯だからと答えました。

そのイベントの終わりに、高校生から今日の感想のお手紙をもらいました。
中にはこう書いてありました。

「私は今が1番幸せと思える人生にしたいです。」


その言葉にはっとしました。

そう、私の一番楽しかった時代は過去で、今が一番楽しくて幸せと私自身は思ってないんだということに初めて気がついたんです。

今を生きていて、今が1番幸せと思えない人生ってどうなんだろう。。。



高校生はどの子もこれからの将来にわくわくしていて、その夢に向かって今を生きているのに、私はこれから先の楽しみなど何も考えることなく、子供たちが朝起きて寝るまでの毎日のルーティーンをこなしていく日々。

自分のことは全て後回し。


高校生との感覚の違いに愕然としました。

望んで出産した3人の子どもたちがいて幸せなはずなのに、私は毎日の忙しさに心を失い、この先自分がどうなりたいか、そのために今どうしたいかって言うようなことなんて何も考えられなかったんです。

そこからこの忙しい子育ての間でも、何か自分らしい一歩が踏み出せることはないかと考えるようになりました。

その頃、息子たちしてあげようと取得したベビーマッサージの講師として、ママに楽しんでもらえる場を作ってみたい。

成功するかはわからないけど、そんな場所が私も欲しかったからとりあえずやってみたい!と思うようになりました。

家もリノベーションしたばかりだったので、自宅の空き部屋をたばら助産院として開業。

知り合いのママに声をかけ、ベビマ教室を始めることにしました。

ベビマをしてその後はケーキとデカフェコーヒーのティータイム、育児相談もできるようにして毎週開催しているといつのまにか満席になる教室になっていきました。

人前で話すのが苦手


ベビマ教室をするのはよかったのですが、ただ、人前で話すことが苦手な私は毎回ど緊張の連続でした。

緊張を隠し、カッコいい助産師ママを演じたいので、ボロが出ないように前置きなし、小話ひとつなくあいさつしたら即ベビマを始めてました。笑


だけど、赤ちゃんとママが見つめあって楽しそうにベビマする姿を見ると、緊張も解けてかえって私が毎回癒されてしまっていました。


心からママが癒されて元気になれる場所にしたいと思って、ベビマだけじゃなく、産後ヨガやアロマ、整理収納の勉強もして、ワークショップなど一緒に楽しめるベビマにしたら、もっとたくさん来てくださるようになりました。



こんな場所を作ることができたのも、ワンオペで泣けるほど大変だった子育ての経験があったから。

こんな場所があったらもっと子育て楽しめた!行きたかった!という強い思いがあったからこそです。

人生に無駄なことなんて何一つない。


楽しかったことも辛かったこともこれまでの過去すべてが私の財産で、今の自分を作り上げてくれています。


だから今が一番最高!と思えるようになりました!

だから、あの時の高校生にもう一度会って、今が一番いいと思える人生になったよ!と言いたいです!


そして、私の持っているママとしての経験と助産師としての専門的な知識のすべてでママに寄り添っていきたいと思っています。


通って楽しむのはもちろん、家でもベビマができるように、なかなか1回では定着しづらい手技1つ1つを、段階を踏みながらスキルアップしていけるよう4回の継続コースをはじめました。


じっくり覚えて自分のものにしていくことで、赤ちゃんをもっと知り、より一層愛おしく感じる愛情のツールになっています。

大きくなっても「ママやって!」とリエストされる一生もののスキルを手に入れて、子育てを思いっきり楽しんでもらいたいと思っています。



そして、これまでの助産師としてママに寄り添ってきた経験をベビマの先生たちに知恵として譲りたい。

ベビマだけじゃなくママの心とからだを理解して寄り添える幸せな教室の先生をいっぱいにして、ママの笑顔いっぱいに!

そしてもっと幸せなママを増やしていただけたら。
こんなに嬉しいことはありません。

私の想いが伝わりますように…。

長くなりましたが、ここまで読んでいただきまして本当にありがとうございます!

     
      たばら助産院 田原恭子



たばら助産院

ここは、ママと赤ちゃんのための休憩所。 不安なこと、つらいこと、 なんでも話してみてください。 20年以上の経験を持つ助産師として そして3人の子どもを持つ母として 一人で抱え込むことなく 安心して子育てができるような知恵をお伝えしたい。 そして、笑顔になって帰ってもらえたなら こんなに幸せなことはありません。 いつだって、ママと赤ちゃんの味方ですよ。 ようこそ、たばら助産院へ。

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